今月29日放送のバラエティー番組「アメージパング!」で、織田信長のデスマスクとされるものがテレビ初公開されました。
本能寺の変で死んだ織田信長の遺体は、これまで本能寺とともに焼失してしまったというのが通説でしたが、自刃した信長の首を燃え落ちる本能寺から明智軍の包囲網を掻い潜り持ち出し、何とデスマスクとして後世に残したそうです。
※宣教師が描いたとされる織田信長の肖像画。最も実際の顔に近いとされている。安土城天守「信長の館」に掲示されていたもの。
では早速織田信長のデスマスクといわれるモノをご覧下さい。
先の宣教師が書いた肖像画と何となく似てると思いませんか。
◆織田信長のデスマスクは何処にあるのか?
このデスマスクを所有するのは織田信長直系の43代目の子孫とされる西山武さんで、愛知県瀬戸市にある「西山自然歴史博物館」に所蔵されています。
デスマスクは、とても柔らかく、窯で焼かなくてもすぐに乾燥する五斗薪粘土(ごとまきねんど)で作られている。五斗薪粘土は1582年から約300年間使用されていたが、今は採取できない素材ということから保管されているものは“本物”といわれており、木をくりぬいて作った箱の赤い布が敷かれた中に納められ、「信長公御霊」という文字が書かれた紙が添えられて展示されております。
◆誰が織田信長の首を本能寺から持ち出したのか?
織田信長は本能寺の変で自刃する際に外国人の家臣である弥助(信長が日本名を命名)に、自分の首を明智光秀に渡すことなく本能寺の外に持ち出すよう命じたそうです。
◆弥助とはどのような人物か?
本能寺の変の前年の1581年に、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノという宣教師が信長に謁見する際に連れていた黒人の奴隷です。
信長は肌の色が天然だとは信じられず、墨で塗っていると疑い、その黒人の肌を洗わせたそうですがその肌はよりいっそう黒く輝いたそうです。
この黒人を気に入った信長は宣教師から譲り受け、弥助と名づけて側に置いたそうです。
弥助は現在のアフリカのモザンビークの出身とされており、一説にはモザンビークの王子だったともされており肉体的・腕力的にだけ秀でていたのではなく、知的にも優れた人物であったようです。 彼はかつての主人である宣教師のヴァリニャーノから天文学や暦学などの西洋の知識を得ており、それを信長に教えたとう話も残されているそうです。
このような弥助に対する逸話が真実であればデスマスクという風習のなかった当時の日本で、織田信長のデスマスクが残された事に納得がいくような気がします。
この織田信長のデスマスクについての言い伝えを信じるかどうかはあなた次第です!
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